クリスマスの朝ですね。
こんな事は滅多に書かないのですが、今日くらいは、真面目な話を考えてみようと思うw
最近、ほんとよく思うのですが、社会貢献なんていう言葉をあまり耳にしなくなりましたよね。
それが当たり前になったからなのか?もしくはみんな自分のことで精一杯でそんなこと言ってられなくなってしまったのか?
実態はわからないけれども、ただ少なくとも、社会貢献っていう言葉を、昔ほど聞きにくくなったというのは、実感として事実だと思うんです。
そして僕はいつも考えています。
「どれくらいの規模を持ってすれば、日本に貢献したと言えるのだろうか?」と。
例えば僕自身、トレバー占星術という活動においては、非常にミニマムな組織で、手が届く範囲で活動をしているわけですが。
果たして、それでいいのかと、いつも考えているわけ。
というのもね、確かに目の前に来てくださったお客様が満足してくださるケースがほとんどだけれども、まだまだ僕らの活動が行き届いていないという事実もあるわけで。
そうなっちゃうと、今の活動状況のままだと「自己満足」のレベルから、全く抜け出していないんじゃないかと思うわけ。
交流会になんか行くとね「もう俺はこれだけ頑張ったし、お金もあるし、これからは好きなことをして生きていって、楽しければそれでいいじゃないか」何て言う社長さんに会うこともある。
確かにその通りかもしれない。そのような生き方も良いかもしれない。
ただそれ、結局は自己満足のレベルなんじゃないかと思うわけ。
快適に暮らしていたということであれば、そして余計なストレスを減らせばよいということであれば、別に成長していく必要もないし、歯を食いしばって無理な仕事をする必要もない。
実際問題、年末年始も思いっきり休んで、Amazonプライムで好きな映画を見るなんていうのもとても良い日常に思い。
ただね。僕はそれじゃあかんと思うのです。
良いものがあるのであれば、そして、恵まれた環境にいるのであれば、それをどんどん外に広げていかないと。
必死になって自分を磨いて、自分が何かを手にすることができたら、ら必ず自分以外の他の人のことを考えるってのが、恵まれた立場にいる人間の取るべきスタンスだと思う理由。
確か東大の教授だったと思いますが「勉強なんて言うのは贅沢なんです」なんてことをおっしゃっていてね。
これホント、僕もよく思うんです。
僕は10代は時代は貧乏で、当然予備校にも通わせてもらえなかったし、大学に進んだところで夜間の大学だから夜までは仕事をしていたし。
何不自由なく机に向かい、そして本が買えるという状況を非常に羨ましく思っていた理由。
そしてありがたいことに、今の自分は、好きなだけ本も買えるし、好きなだけ勉強もできる環境にいるわけ。
となるとやっぱり、少しでも多くの人に貢献するってのは、こういう恵まれたポジションにいさせてもらう人間の責任だとも思うんですよね。
社会貢献。
いったいどれぐらいの規模で活動すれば、社会貢献をしたということが言えるのだろうか?
確か仏教だったと思うんですが、仏教には輪廻転生の思想があるわけで、現世でどれだけの人に貢献したかというのが、死んでから評価される?みたいなことを読んだことがあってね。
確か僕が読んだ本では、何人を救ったか?何人に貢献したか?ていうところが評価の基準になるらしい。
随分前の話で、僕も頭が悪いから解釈が間違っているかもしれないけれども、確かに「何人を救ったか?」というフェーズは非常に覚えてる部分があるわけです。
つまりは人数なんだと。
自分の場合はどうなんだろうか?
はっきり言って、、、まだまだだよね。
もちろんただ単に数が多けれいってもんじゃないと思うし、いい加減な仕事を世の中にばらまいて、たとえそれが普及したとしても、社会貢献と言えるかどうかは微妙だし。
ただし言えることは、うちの規模ではまだまだ足りないっていうこと。まだ日本人のほとんどの人にリーチできていないということ。
ここからは目を逸らしちゃアカンと思うわけです。
来年以降も、トレバー占星術に限らず、もっと影響力を大きくして社会貢献できなきゃあかんなあと思うわけです。
世の中の胡散臭い広告のほとんどは、自分勝手なこと、自己満足を満たすことしか言ってないからそう感じるわけでしょ?
適当に楽しく生きればいいじゃん、、、まあいいけど、僕らはそれじゃ満足できないよね?
綺麗事じゃなくて、事実としてさ。